bonyarifeminist’s blog

うすぼんやりとした自称フェミニストのブログ。こちらはバックアップ用。

恥ずかしい告白(2)

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 残念ながら既に絶版になっているようなのだけれど、故・田辺聖子のエッセイに『ほのかに白粉の匂い 新・女が愛に生きるとき』()というものがある。その中の『結婚しない女たち』という一篇で、田辺聖子はこう書く。

何がすすんでる、変ってる、っていったって、女の意識ほど変ったものはない。(女心とはべつである。女心は変らない。『万葉集』や『源氏物語』の昔から変らない) (中略) 女心としては、太古以来変らない娘たち、つまり、男に「いとしいもの」と思われ、庇護され、可愛いがられたい、たよりたい、その男の子供を生んで、二人で育てたい、いつも男に自分だけをみつめてもらいたい、—というような、いじらしい女心を底に秘めている娘たち― (後略) 

  どれだけ「自分はフェミニスト」「女をコケにする男、嫌い」「女を傷つける男の子なんて産んでしまった…!」と言ったところで、私にも太古以来の変わらない女心が息づいている。思い返せばおそらく物心ついたときから実際に結婚するまで、私の人生の最大の悩みのひとつは「将来、結婚できるかどうか」ということだった。私を選び、人生を共にしようと言ってくれる男は果たして現れるのか。現れなかったらどうしよう……と心の底でいつも怯えていたように思う。

 うーんそれって承認欲求の最たるものだよね、別に「結婚」じゃなくてもいいんじゃないの。シスターフッドだってあるでしょ。だいたい「結婚」を絶対的なものととらえているその依存心って、家父長制の考え方にどっぷり毒されてるよね。っていうか男に「選ばれる」というその受動的な考え方、やめなよ!

 と今なら言えるのだが、そして性愛に基づく男女の愛なんてほんともろいよ……。結婚なんて絶対のものじゃないんだよ……と今なら痛いほど分かるのだが、なにしろぼんやりしているので、実際に失敗するまでは気が付かなかったのだ。

 気づいた後も、女心はふとした瞬間に後付けの人格を呑み込んでしまう。一回結婚に失敗しているにもかかわらず、二度目のプロポーズでもやはり「選ばれた」と舞い上がった。そして子育てをしている今は、「その男の子供を生んで、二人で育てたい、」という女心が満たされた生活にどっぷりと浸かってしまっている。

 しかも育てているのが男の子とくれば、ともすれば満たされた女心は肥大し、尊大になり、天にも昇りかねない。「私を生涯の伴侶として選んでくれた」男のほかに、「私を全身全霊で愛してくれる」男がいるからだ。出産前、男の子がいるお母さんたちに漠然と感じ、恐怖した根拠のない自信は、「私を心から愛している男が少なくとも二人はいる」、これに由来しているのだと思う(自戒を込めて)。

 けれども、「私を生涯の伴侶として選んでくれた男」はいつ生涯の伴侶でなくなってもおかしくないし(こっちから捨ててやる! と思うことも多々あるし)、「私を全身全霊で愛してくれる男」は、いつかは外に出て、他に全身全霊で愛する対象を見つける。その時に太古以来の女心にどっぷりと倚りかかった人生を送っていると、そりゃーその喪失感ったらたまんないだろうなー、ということは容易に予想がつく。

 というわけで、太古以来の女心を持っていることは否定しないし仕方のないことだと思うのだけれど、少なくともそれを意識して肥大化させないことに努めたい。人様の前でダダ洩れにするのはもってのほかだ!

 と常に自分に言い聞かせておかないと道を踏み外しそうになるあたりが、本当にぼんやりだよ……。

 

※名作。30年以上前の本なのに、日本の男女の意識があまりにも変わってなくてすごい。